「優しい言葉。」
昨日のBar Surでの悲しい出来事が、2人の心の中に”やりきれない思い”を少しづつ作り上げており、最後にはその重み(!?)に耐えられなくなって、2人はいつの間にかその券を購入したTICKET OFFICEの前へとやってきてしまっていた…。
昨日のBar Surでの悲しい出来事が、2人の心の中に”やりきれない思い”を少しづつ作り上げており、最後にはその重み(!?)に耐えられなくなって、2人はいつの間にかその券を購入したTICKET OFFICEの前へとやってきてしまっていた…。
EVITAのお墓の前で。
1919年、アルゼンチンの片田舎で、私生児として生まれた彼女の本当の名は、エバ・ペロン。彼女はその美貌と行動力を武器にして、人生の階段を次々と掛け上っていき、遂にはファーストレディ(大統領夫人)にまで上り詰めることになる。
ブエノスアイレスには、町のあちこちに大小様々な種類の公園が点在していて、それぞれがそれぞれの“個性”を持って人々の心を癒してくれている。
目の前の小さな空間の中で奏でられるArgentina Tangoの魅惑的な響き。
その世界に、いつの間にか2人とも、静かに深く魅きこまれていく…。
Thank God It`s Friday。
Jの体調もようやく本調子に戻り、快気祝いと最後の週末を楽しむ意味を込めて、1週間ぶりにいつもの食堂へと足を運んだ。
1夜明けた、あくる日の朝。
暗く閉ざされた部屋の入口となっている両開きの扉を開け放つと、廊下の壁についた天井まである“スリ硝子”の窓を通して建物の中に入り込んだ柔らかい朝の光が、部屋の中の板敷の床にスッと滑り込んできた。
昨日の夜のこと。
日中からどうにも腹が張るなぁ…と思っていたのだけれど、それが時間を追うごとにひどくなっていき、夕食を食べ終えた後辺りからはもう、横になっていてもとにかく気持ちが悪くてしょうがないという状況になってしまった…。
普通はメシを食べて少し経ったら“膨れた腹”だって落ち着いてくるところが、今日(昨日)に限ってはどうにもそれが落ち付いてこないのだ。バリウムを飲んだ後みたいに、胃の中がパンパンな感じがする。
だからと言ってどうにも仕様がないものだから、とにかくベッドに横になってウ~ウ~唸っていたのだけれど…ちょうど零時を廻ったあたりで、ついに“それ”がきてしまったのである。急いでトイレに駆け込んだあとは、もうとにかく、胃の中に入っていた今日の全ての“おかず”たちを放出し続けるだけ、という状態。
しまいには下の方からもグルグルという音が聞こえだし、どっちをどう処理したらいいのやら、もう大変な修羅場になってしまった!?
完全に「食あたり」の症状だ。それでも、これだけひどいのはモロッコの砂漠で経験して以来だろうか…。あの時はMも一緒にアタったわけだが、今日についてはMは特に何も以上はないらしい。いつもはMの方が食べモノにはアタリやすいのに…まったく、一体何がいけなかったのか。一番怪しいのは、昨日の炎天下の中で食べた“持参のサラミ”であるような気がする。Mはあまりたくさん食べず、ほとんどJが平らげたのだが、切り口が妙にジューシーだったのが、今となっては思い出すだけで気持ち悪くなってくる…!?
夕方近くになってきても、太陽の威力は弱まる気配をまったくみせない。
頭上には雲ひとつなく、絵具を薄くのばしたような真っ青な空が、動物園の緑の大地を包み込むようにして広がっている。
よく晴れた空の下、今日は2人で動物園へ…。
Buenos AiresのPalermo地区から出ている路線バスに乗って郊外にあるその動物園へと移動していくのだが、これがまぁ、たっぷりと2時間くらいはかかることになる。
夕方、涼しくなってきたSan Telmoの町を歩きながら、赤く染まり始めた空を眺めていると何だか切ない気分になる…。
毎週末は、アンティーク三昧。
ここに来た時点からもう、そうやって決めていたから、もちろん今日も、午前中から勇んでご近所(San Telmo地区)をブラブラしてきました。
夜はRestaurant “El Querandi” にて、この街で2度目のTango Dinner。
アンティークマーケットの露店の間では、様々なバンドによる路上演奏会が開かれている。
やはり、Tango Musicを演奏するグループが多く、それぞれ必ず1人~数人のバンドネオン奏者を抱えている。バンドネオンはアンティーク・楽器として売られている事が多いようだが、見た目にもやはりそういう古びたゆえの魅力を感じさせてくれる。
毎週日曜日になると、このあたり(San Telmo地区)ではDorrego広場を中心にして「Antique Fair(骨董品市)」が開催される。
今日もかわらず、町を歩く。
13日の金曜日ということで、2人とも妙に慎重な足取りで散歩してたような気がする(笑)。
Hotelの部屋に荷物を降ろし、お昼過ぎまでベッドで一眠り。
そうしてようやく少し移動の疲れが取れたかなというところで、さっそく久しぶりに帰ってきたBuenos Airesの町を歩き始めた。
AM10:00。2人を乗せたバスはRetiro(Buenos Airesのバスターミナル)に到着した。
Patagoniaを旅している時から「今、Buenosは湿気も高くて、とにかくめちゃくちゃ暑い。」という噂を耳にしていたが、バスを降りて外に出てみると、確かにこれまで過ごしてきた南の土地とは空気の質が違っている様である。
AM9:30、Bariloche(バリロチェ)のバスターミナルを出発。
向かうのは、この長かった南米の旅の最終滞在地となる町「Buenos Aires」だ。
夕方、Colonia Suiza(スイス・コロニー)に到着した。
ここまでの道のりは思っていたよりも随分と長くて、途中、低い木々の間を通る砂利道を歩いていた時などには、あまりの日差しの強烈さに、山を降りる頃には日射病になってるんじゃないかと思ったくらいだった。
目的のRefugio(山小屋)に到着する直前にきて、山が急にひらけたかと思うと、2人の目の前に巨大な山肌が姿を見せた。山肌の奥まった部分には小さな氷河の白色も顔を出し、2人の歩く道の途中にも雪が取り残されたように解け残っている…。
森の中を歩いていた。生い茂った木々の葉の間から、木漏れ日が土の大地に降り注いでいる。町で感じでいた暑さは、この木立の中では少し和らげられているようだ。
湖畔を歩き始めて、2時間以上は経っただろうか…。
道は基本的に“車用”に出来ているから、山道をあるくようには気持よく「トレック」は出来ない。でも、路肩の植えられた木々になる実や、お店で購入した美味しいアイスクリームなどの力もあって、ある程度楽しく散歩してくることが出来た。
Bariloche(バリロチェ)2日目の、午後。
バリロチェは、その正式名称を「San Carlos de Bariloche(サン・カルロス・デ・バリロチェ)という。先日の“Ruta 40バス”の添乗員である「好青年」の話によれば、その昔、この地に最初にやってきた“ドイツ人”の名前がその由来となっているらしい。
Bariloche(バリロチェ)の町に着いた、その翌日の朝。
AM8:00に起きて宿の朝食を食べ終えると、そのままの姿で町歩きへと出かけた。
宿の目の前にある“バス乗り場”の方をロビーの窓から覗いてみたが、2人が乗る予定のバスはまだ到着していないようだ。
宿のダイニングで朝食を食べ、荷物をまとめた状態で午前中はそのまま待機。
ソファーに座って本を読んだり日記をつけたりしながらそのまま“昨日の宿”のロビーで過ごし、昼を廻った頃になってようやく“今日の宿”へと移動した。
Fitz Royでのキャンプを終え、ここから今度は「Ruta 40」という、アルゼンチン版「ルート66」的なHistoric Roadを通って、美しい山と湖に囲まれた町「Bariloche(バリロチェ)」へと向かうのだが…
AM8:00。昨日と同じような時間帯に、同じような“冷たい空気”を感じて目覚めた。
外は、曇りとも晴れともつかないようなちょっと微妙な天気だが、とりあえずFitz Roy(フィッツロイ山)は今日もしっかりとその姿を見せてくれているようだ。